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1.名工列伝/仁清 2.名工列伝/乾山 3.名工列伝/頴川・木米・仁阿弥 4.京の焼き物いろいろ |
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INDEX | 匠の技|西陣織|京友禅|京仏壇・京仏具| 京扇子|京うちわ|京焼・清水焼 | スポット |
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| 赤絵の名人 頴川(えいせん)■■■ |
| ・・・・・奥田頴川 1753〜1811 |
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陶芸三昧の富豪 奥田家は京都で「丸屋」という大きな質商を営む大富豪でした。この4代目が、奥田家に入家した庸徳頴川こと庸徳(やすのり)の叔父でした。叔父の子供たちがいずれも夭折したため、5代目として庸徳が養子に入ったのです。もともと庸徳は京都のそれなりに裕福な家の出身で、生家は頴川(えがわ)といいました。頴川一族は明末に乱を避けて日本に帰化した中国人の家系で、頴川(えいせん)という号はこれに因んだものです。
豊かな家で育ち、若いころは建仁寺で読書や趣味三昧の生活を送っていた頴川は、丸屋の当主となっても、相変わらずの趣味人ぶりを発揮していました。商売の実質は番頭たちが切り回していたため、頴川が作陶に熱中していても、さしたる不都合はなかったのです。それでも35、6才のころには早々に家督を6代目に譲り、陶芸三昧の日々を送りはじめたのです。 |
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素人の余芸を超えて 頴川の功績の一つに、磁器の焼成があります。当時、京焼の陶工の間では京都で磁器を作り出したいという強い願望がありました。しかし、余計な出費や手間のかかる研究は、やきものを生業をする人々にはなかなか出来ないことでした。頴川がものごとを究めずにはいられないタイプであり、熱心でしかもとても裕福な素人陶芸家であったからこそ、磁器の焼成に成功することができたのです。 デザイン的な部分でも、頴川は一つの壁を破りました。和風の古清水スタイルがあふれ、マンネリ化して煮つまってしまった京焼の世界に、南画(なんが)という中国の水墨山水画の様式をはじめとして、極めて中国的な意匠の作品を持ち込んだのです。頴川の作品のほとんどは赤絵で、特に赤や緑を使った奔放な筆使いで、中国風の花鳥文や魚文などを描く、呉須(ごす)赤絵を得意としていました。そんな頴川の作品は当時の青年陶工たちに衝撃を与え、頴川の元に続々と有望な陶工が集まったのです。彼の指導のもとにその才能を開花させた門下には、京焼を代表する陶工となる青木木米(あおきもくべい)や仁阿弥道八(にんあみどうはち)がいました。彼らを世にだしたことで、頴川は指導者としても高く評価されています。 |
![]() 色絵麒麟菊花文水指 東京国立博物館蔵 |
| 非凡な才能を発揮 木米(もくべい)■■■ |
| ・・・・・青木木米 1767〜1833 |
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早熟なアーティスト
木米の生家は京都祇園にある「木屋」という茶屋でした。祇園という土地柄もあって、その近くには篆刻(てんこく)で名の高い、高芙蓉(こうふよう)という儒学者が住んでいました。高芙蓉は、篆刻や儒学だけでなく書画にも優れ、銅器や玉材(ぎょくざい)、銭貨といった古器の鑑賞もたしなむような人物でした。少年時代の木米は高芙蓉の家で遊び、さまざまな教養を身に付けるとともに、古器を鑑賞する喜びを覚え、そこに出入りする多くの文人や芸術家にかわいがられました。 しかし木米の文化的な支柱であった高芙蓉は、木米が18才の時に江戸に移り、まもなく病気で他界してしまいました。その後、20代の木米の消息についてはあまりわかっていません。京都を出て、伊勢古市では銅器の鋳造を行って生計を立てていたり、当時流行していた古銭の鑑賞が高じて、自ら鋳造を試みて偽金造りに足を踏みいれそうになったりしていたという記録が残っています。あれこれとクリエイティブな彷徨を続けてきた木米も、29歳の時、父の死を機会に京に戻りました。そして20代の終わりとともに何か一つの方向に道を定めることを考え始めたのです。 |
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「陶説」によって開眼 木米最大の転機は、ある書物によって訪れました。当代きっての風流人である木村蒹葭堂(けんかどう)の蔵書にあった「陶説」という中国の文献を読んだ時、木米は深い感銘を受けたました。そして陶芸こそ自分の生涯の仕事であると心に決めたのです。木米30才の時のことでした。その後蒹葭堂を通して知り合った頴川の元に弟子入りし、わずか5年ほどでその実力が認められるようになりました。そして40才になるころには加賀の前田藩に請われて金沢に窯を築くほどになりました。 その後金沢での活動に見切りをつけ京都へ帰った木米は、さらに文人や画家、風流人などとの交流を広げ、陶芸の技を洗練させていきました。頼山陽(らいさんよう)を始めとした当代屈指の文章や書画の達人たちが木米の交流していた人々でした。彼らは交流を楽しみ、そこからさらにお互いの芸域を広めていきました。 木米の作品はその様式、形状ともに非常に多岐に渡ります。中国系、朝鮮系、唐物、和物と数々の写しを製作しましたが、そこでも彼の非凡な才能が発揮されています。それは木米が若いうちから身に付けた好古癖による深い鑑賞の賜といえるでしょう。また、木米のオリジナル作品は、彼の高い文化人的素養を活かしたもので、彼自身の中国嗜好を反映した煎茶器が数多く作られました。交趾手(こうちで)や、染付、赤絵、青磁、白磁などに見られる洗練された瀟酒(しょうしゃ)な感覚は、これまでの京焼とは別の世界に属するものでした。そんな木米の作品たちを古清水風に飽きてきた人々は歓迎したのです。 |
![]() 染付龍涛文提重 東京国立博物館蔵 |
| 京風の復活 仁阿弥■■■ |
| ・・・・・仁阿弥道八(にんあみどうはち)1783〜1855 |
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2代目陶工 仁阿弥道八は粟田口の窯《松風亭》の初代高橋道八の次男として生まれました。跡継ぎの兄が夭折したため、父高橋道八の後を継ぐ2代目陶工として頴川の門下となりました。初代道八は、滝沢馬琴(たきざわばきん)の文中に、《松風亭》の作品の褒め言葉が残るほど腕の良い陶工でした。 同じ頴川門下の木米は、煎茶趣味や中国的な感覚を表現していましたが、道八は伝統的な京焼の持つ純日本的な感覚を表現することを目指しました。仁清、乾山、光悦などの名陶の写しを行って腕を磨いていったのです。仁清や乾山の写しは、当時活躍した多くの陶工たちも手がけていましたが、オリジナルのもつ芸風を自分のものとして、その雰囲気までも再構築するという点では、道八が誰よりも抜きんでていました。彼の写実にかける精神は徹底していて、「仁清」や「乾山」の銘まで忠実に写していました。その精度の高さは、写しであることを記した箱書が失われれば、立派に仁清や乾山として通用する作品もあるくらいです。 |
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日本風の復活 仁阿弥道八の作風の主流は、前期の京焼に見られたような日本的な美しさの復活にありました。彼の代表作には、器の内外を桜と紅葉で埋めた雲錦手(うんきんで)鉢や、雪笹手(ゆきささで)鉢、桜や紫陽花(あじさい)、菊絵など乾山風の鉢類があり、仁清風の秋草文茶碗などが知られています。その作品の大部分は雅趣ゆたかな抹茶趣味のものでした。また、道八の名を高めたものに染付(そめつけ)があります。白磁に呉須の青で絵付けをした青花白磁は特に高い評価を得ていました。
道八の目指した仁清、乾山の流れを汲む「京風」なやきものは、宮家や公家といった堂上の茶人や各地の大名、富裕な町人たちの好みに合い、次第に人気を博していきました。道八の作品が広まるにしたがって、道八はあちこちの御庭焼の指導や製作に招かれることになりました。御庭焼とは、藩主や寺など権力者が自分の好みに合わせたやきものを焼かせるために邸内などに作った窯のことで、京焼の名工によって指導されました。 |
![]() 色絵桜楓文木瓜形鉢 東京国立博物館蔵 |
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