京焼・清水焼 1.名工列伝/仁清
2.名工列伝/乾山
3.名工列伝/頴川・木米・仁阿弥
4.京の焼き物いろいろ
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水墨画の味わい 乾山(けんざん)
・・・・・尾形乾山 (1663〜1743)

呉服商に生まれた兄弟

 尾形乾山は京都の裕福な呉服商「雁金屋」店主尾形家の三男権平(ごんべい)として生まれました。すぐ上の兄は市之丞(いちのじょう)といい、成長して江戸時代を代表する装飾派の画家尾形光琳となった人物です。二人の曽祖母にあたる初代「雁金屋」の妻が、江戸時代初期の美術工芸家として名高い、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の姉だったこともあり、尾形家は学芸に造詣の深い家風でした。また、権平、市之丞は、家業である呉服が宮中や大奥を対象とした最高級品であったため、きらびやかな衣類の優れた意匠に、常日頃から囲まれていました。それは彼らの美意識に大きな影響を与えたことでしょう。

 同じ華やかな環境に生まれても、権平と市之丞はずいぶんと違う性格に育ちました。兄市之丞は遊び好きで派手な性格、弟権平は書物を愛好する内省的な性格でした。光悦の芸術を偲んではその孫から陶芸を学び、当時の優れた茶匠であり学者であった藤村庸軒(ようけん)からはさまざまな教養を得、禅の修業までしたという、風変わりで学問好きな青年が権平でした。中でも権平がもっとも得意としたのは書で、後年のやきものにも数多くその書が残っています。

 そんな権平が25歳の時、父親が他界しました。早くから隠遁を夢見ていた権平は、父の遺産を元に御室に隠宅を構え、悠々自適の生活を始めました。そしてかねてから興味のあった仁清の元に弟子入りしたのです。


乾山窯(けんざんがま)での兄弟合作

 御室に隠宅を構えてから10年後、権平は仁清から陶法伝書を授けられ、自らの窯を開くことになりました。窯はかねてから権平・市之丞の兄弟をひいきにしてくれていた二条綱平公から譲り受けた、鳴滝(なるたき)の山荘に開かれました。その場所が都の西北すなわち乾(いぬい)の方角にあたることから、乾山窯と名付け、自らの号も乾山としたのです。

 この鳴滝の窯で、乾山は既に「光琳」の名で人気画家となっていた兄の協力のもとに数々の作品を世に送り出しました。光琳は弟のために惜しみなくこの画才を発揮しました。こうして生まれたのが一連の光琳銹絵(さびえ)陶です。乾山は兄が絵を描きやすいように、いろいろな工夫をこらしました。形状では画面が平らな角皿や六角皿を作りました。この角皿の多くは白地銹絵(さびえ)と呼ばれる類で、赤みのある土の地肌に純白の泥を塗って白肌にしたて、その上に黒の絵の具で絵を付け、全体を無色透明の釉(うわぐすり)で覆って焼き上げたものです。

 また、乾山は釉下色絵という様式を開発しました。一般的な上絵付けでは、焼くと溶けてガラス質の膜となる釉(うわぐすり)をかけて、一度高温で焼いた上にやや低い温度で色釉を焼き付けるという方式が取られています。これは、高い温度で焼くと色が飛び、低い温度で焼くと器自体が脆くなるという問題を解決する方法です。しかし、この方法をとると、ガラス状の表面に絵を描いていかざるを得なくなり、そこに描かれるものは紙や絹に描かれるものとはまったく違ったものになります。そこで、乾山は器の堅牢度をあきらめて、白地銹絵のように、白泥で化粧をしただけの肌に直接絵を描き、その上から無色透明の釉をかけて焼くことにしたのです。その結果、壊れやすいという欠陥こそあるものの、まるで水彩画のような風情をもった色絵のやきものが誕生したのでした。



銹絵観鴎図角皿 (右側は皿の裏)
東京国立博物館蔵

流転の人生

 開窯から13年で鳴滝の窯は終焉を向かえ、乾山は京都の町中、二条丁子屋に住まいを移しました。移転の理由は、万事に不便だったからとも、研究や試験に莫大な費用をつぎ込む放漫経営の果ての財政逼迫(ひっぱく)のためともいわれています。二条に移ってから乾山は、清水あたりで窯を借り、世間うけのする色目の鮮やかな食器類を多く作って生計を立てていました。きらびやかな色絵ものはこの時期の20年間に作られたと考えられています。水墨山水画や書などのびのびとした感覚の作品を得意とする乾山にとって、本領とは違う製作ではありましたが、意匠の良さと色目の美しさが受けて、この商売は結構繁盛をしたといわれています。しかしその後、乾山は69才にして突然江戸に下ってしまいました。以来京都にもどることなく、江戸で81才の生涯を閉じました。何が、老年の彼が江戸へ駆り立てたのかは、今も謎につつまれています。



1.名工列伝 仁清
3.名工列伝 頴川・木米・仁阿弥


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