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1.名工列伝/仁清 2.名工列伝/乾山 3.名工列伝/頴川・木米・仁阿弥 4.京の焼き物いろいろ |
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名工列伝
京都で生み出された焼き物は、他の産地とは違う独特の雅やかさをたたえています。そのような京焼・清水焼ならではの味わいは、多くの焼き物アーティストたちによって伝えられ、はぐくまれてきたものでした。
●華麗な茶器の世界 仁清(にんせい) |
| 華麗な茶器の世界 仁清(にんせい)■■■ |
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・・・・・野々村仁清 生没年不明 (およそ1624〜1681ごろに活躍) |
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絶妙なカーブを描くまろやかな形、上品で洗練された絵付け、半透明で柔らかな釉薬の肌合、京の雅を見事に表現したやきものが仁清の作品です。 |
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粟田口窯での出会い 仁清はもとは野々村清右衛門(せいえもん)といい、丹波の国野々村から京都の粟田口(あわたぐち)にやってきた丹波焼の陶工でした。江戸時代の初期において丹波は既に歴史あるやきものの産地でしたが、長い伝統に培われた高度なろくろの技術は、壷などの素朴なやきものを作るために使われていました。 一方、当時の京都では、瀬戸風の高級陶器や、唐物の写し、高麗茶碗の写しなどが盛んに作られ始めていました。これは喫茶の流行に伴って茶器の需要が伸びたためで、粟田口あたりには、瀬戸から陶工が移り住んで開いた窯が沢山ありました。やきもの生産は粟田口だけににとどまらず、八坂(やさか)や清水(きよみず)、音羽(おとわ)といった京都東山山麓を中心に、大きく発展しようとしていた時代でした。そんな動きを感じて各地からやってきた陶工の一人が清右衛門だったのです。 洗練されたやきものを修業すべく粟田口にやってきた清右衛門ですが、粟田口での修業に物足りなさを感じたのか、粟田口の陶工のルーツである瀬戸にまで腕を磨きに行きました。そして数年間を瀬戸で過ごし、粟田口に戻ったのです。そこで清右衛門を待っていたのが金森宗和との出会いでした。 |
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清右衛門から仁清へ
その茶風は、千利久が確立した「わび」とは対照的な華やかなもので、姫宗和と呼ばれました。姫宗和は宮廷の人々の好みに合い、宗和の美意識は彼ら殿上人(てんじょうびと)たちに信頼されていました。 宗和は自分の美意識にあったやきものを作らせるために、きりがたと呼ばれる型紙を陶工に与えて、粟田口の窯で茶器を作らせていました。その粟田口で宗和は、瀬戸から戻った清右衛門を知ることになったのです。
清右衛門と出会ったころ、宗和は仁和寺(にんなじ)の門前に窯を開く計画に携わっていました。仁和寺は宇多(うだ)天皇が退位後の御所として以来御室(おむろ)とも呼ばれていましたが、長いあいだ廃虚のままでした。それが再興されることになったため、仁和寺に関わる美術好きの皇族が、再興を機会に、仁和寺のためにやきものを焼く窯を求めていたのです。 |
仁清の作品の多くは茶道具や懐石道具でした。それらは茶壷、茶入れ、茶碗、水指(みずさし)、香炉、香合、鉢、向付(むこうづけ)といったもので、もっぱら宗和好みのデザインでした。仁清の作品の特徴として上げられている繊細さや優美さには、宗和の好みが大きく影響を与えています。また、仁清はまだ未発達だった京焼の色絵の技法を完成させました。赤(濃赤)、萌黄(若竹色)、紺、紫、金銀彩や、蒔絵の手法を応用した仁清の上絵付けの色絵は、「仁清手(にんせいで)」として他の産地の作品にまで影響を与えるほどのものでした。
仁清の作品の美しさを支えているものの一つに、天才的なろくろ成形の技があります。薄手で繊細な形はその技なしに生まれてくることはできませんでした。ろくろだけでなく彫塑的な造形においても仁清は優れた技量を持っており、数々の名作を残しています。さらに釉薬にも特徴があります。仁清釉(にんせいゆう)と呼ばれる釉薬は、仁清が苦心して調合、焼成し実現させたもので、半透明で柔らかな釉肌が、形の魅力を最大限に引き出しているのです。 |
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