南部鉄器の伝統 1. 南部鉄器の系譜
2. 地元資源が育てた南部鉄器
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1. 南部鉄器の系譜

 南部鉄器は江戸時代、南部藩のもとで茶釜づくりから発達した鉄鋳物で、盛岡を中心に作られ続けてきたものです。当時、伊達藩の領地であった水沢市で作られてきた日用品に起源をもつ鉄鋳物も含め、現在では岩手県で生産される鉄製品を総称して南部鉄器と呼んでいます。

豊富な資源に支えられた鉄器づくり
 岩手県は原料となる砂鉄や鉄鉱石をはじめ、燃料である木炭、鋳型のための川砂や粘土、錆び止めの漆などの資源に恵まれ、各地で昔から鉄器の鋳造が行われていた地方です。特に現在の盛岡市を中心とする地域は、江戸時代には南部藩に属し、その庇護のもとに発達した鉄器は、南部鉄器として今日まで広く親しまれています。



明治時代の鉄瓶のカタログ
南部鉄器-茶釜の始まり
 江戸時代初頭、南部藩は江戸から追われた文化人を受け入れていたこともあって、盛岡城下では武士階級だけではなく町人階級においても、茶道を初めとした文化が発展していきました。茶道が盛んになると、藩主の南部重直は本格的な茶釜を藩内で製作することを考え、1659年には京都系の茶の湯釜の製作者である小泉五郎七清行を、藩の「御釜師」として召し抱えたのです。以来小泉家は代々の藩主の絶大な庇護のもとに製作活動を続け、今日に至っています。

 この小泉家の茶の湯釜づくりによって藩内の茶道はさらに発展し、製作された茶釜は幕府や関係諸藩への贈答品として活用され、「南部」の名を印象づけました。


鉄瓶の誕生

尻張型鉄瓶
4代小泉仁左衛門 清光作
 南部鉄器として最も有名なものは鉄瓶ですが、鉄瓶は1772年に小泉家の三代小泉仁左衛門が創案したものだといわれています。三代小泉仁左衛門のころには従来の抹茶による茶道の他に煎茶法が現われ、藩士や領内の文人の中でも煎茶法を学ぶ人が出てきました。そこで小泉仁左衛門は、煎茶法で使われる土瓶の代わりに鉄製品を使用することを考えました。抹茶用の茶釜を小さくして図案をこらし、ツルと呼ばれる持ち手と注ぎ口をつけたものが南部鉄瓶の始まりといわれています。

 こうして誕生した鉄瓶は藩主に認められ、四代目仁左衛門時代には数多く製作されるようになりました。さらに五代、六代と代を重ねるに従って需要が伸び、鉄瓶をつくる職人も増え、茶の湯の世界だけでなく日常の道具として、鉄瓶は普通の町人や農民にも愛用されるようになりました。


全国に知られた南部鉄器
 南部鉄器が現在のように全国的に知られるようになったのは明治時代に入ってからでした。明治41年、盛岡を訪れた皇太子殿下(大正天皇)が南部鉄器の製作工程を観覧しました。その時行われた実演や過去の鉄瓶の展示は、随行していた新聞記者たちにも好評で、その様子が全国の新聞に報道されたのです。皇太子殿下が直々にご覧になったということで宣伝効果は大きく、南部鉄瓶の名は全国に知れ渡りました。

2. 地元資源が育てた南部鉄器


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