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厳しい時代へ挑戦する闘志を燃やして。 伝統工芸士 岩尾勝太郎氏
大正15年生まれ。 |
始まりは、自然の流れ。「もう、決めてますから。これしかないって、腹くくってます」微笑みながら語る岩尾さんが竹細工の世界に入ったのは、終戦後、放浪ののちに帰郷した20代初めの頃。竹細工に対して特別な思い入れがあった訳ではなかったと言います。兄弟のうちの誰かが家業を継がなくては、という感覚でのスタートでした。 父、岩尾光雲斎さんは高名な竹細工の名人。既に百人以上の門弟を育てあげた名人の、弟子のひとりとして岩尾さんは修行を始めました。 当時の修行は、現在の学校システムとは違い、「見よう、見まね、雰囲気の中で技術を会得していく」といったものでした。基礎的なことを身につけるのに2〜3年、5年もたつと自分がこの道でやっていけるかどうか分かってきたと岩尾さんは語ります。 その頃の竹細工職人の卵たちは、竹ひごのこしらえから完成までの全工程を通しで修行したといいます。作品づくりを繰り返し、技術を体得する過程で、さまざまな試行錯誤を繰り返すことが出来た時代でした。 しかし、昭和30年代から別府の竹細工も分業が始まったため、それまでのような技術の身につけ方が出来にくくなりました。今の若い人の方がやりにくいかもしれないと岩尾さんは考えます。 |
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年を取るということが、 味につながる こともある。 |
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別府竹細工の魅力は、まずその素材である竹の質感にあると岩尾さんは語ります。滑らかさ、美しさ、光沢。別府竹細工のほとんどは地元大分の竹によって編まれています。 別府で竹細工を学び他県へ帰った人たちの中には、大分の竹に惚れ込む人も多く、岩尾さんのもとには、自分の作品づくりのためにわざわざ竹を取り寄せる人の依頼があるといいます。
良質な竹を使って編まれる別府竹細工ですが、素地を活かしたものよりも、色付の物の方が、奥行や高級感があると言われて人気があります。しかし、素地を活かした白生地のものには、白生地ならではの魅力があり、それは年を取ることで、年を取ったなりに味のあるものに変ると岩尾さんは語ります。 話をしながら岩尾さんが取り出したのは、50cm程の高さでふくよかな形の、細かい編み目がエレガントな飴色の花籠。15年から20年ぐらい経つというにもかかわらず、傷みや素材の衰えを感じさせない色つやです。もとは白生地で編まれたものですが、人の手に触られたり、年月の積み重ねによってこの独特の風合いが生まれたといいます。 竹細工は扱い次第。直射日光に当てず、まめに埃をはらってからぶきするなど、大事に使えば何十年でも持ち、修繕して使うことも出来ます。竹はもともと野性のものなので、気楽に自然に付き合えばいいというのが岩尾さんのアドバイスです。 |
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困難な時代だからこそ やりがいがある さまざまな状況の中で長年竹細工を続けてきた岩尾さんですが、平成になって間もなく、人生のなかで最も印象に残ったという作品をつくることになりました。平成2年の大嘗祭の祭器の製作依頼が岩尾さんの元に届いたのです。
元号の節目に居合わせたこと、別府が祭器の産地に選ばれたこと、さらに別府の中の職人として選ばれたということに、巡り合わせの妙を感じたと岩尾さんは語ります。 現在別府の竹細工はこれまでにない厳しい時代に直面していると岩尾さんは分析します。過去にも厳しい時代はありました。江戸時代から使われてきた竹製品の日常用品が、プラスチック製品に取って代わられた昭和30年代です。 多くの事業者が廃業、転業を余儀なくされましたが、工芸に近い所で作品づくりをしていた岩尾さんは、より工芸品的なものに転換していくことで活路を見い出しました。 プラスチック製品の登場をきっかけに、工芸的なものづくりを考えようという意識が芽生え、研究グループが生まれるなど、より工芸的な竹細工が作られるようになった、と岩尾さんは語ります。 そうした方向性は昭和40年代からバブル期に求められた<より良質な物を>という需要に見事にかみ合いましたが、長くは続きませんでした。バブル崩壊です。バブル崩壊後の構造不況はもちろん、中国から入ってくる安価な竹細工製品との競争もあって、今が一番深刻だと岩尾さんは考えます。 「この時代が正念場、逆にこれからが面白いぞ、やりがいがあるぞって考えますね」岩尾さんの姿勢はあくまでも前向きです。 |